家族の座 ジャーナル

変えられない&くり返す 自分の持っている無意識の行動パタンを、癒やしながら手放していくコンステレーションのすべて

誰も助けてくれない。と思う気持ちとインナーチャイルド

家族の座 コーディネータりんりんがガイドするコンステレーションの世界

家族の座コーディネーターのりんりんです。  

 

 

 

今日は、トレーニー仲間Nさんが

インナーチャイルドと私」のワークの感想を

シェアしてくれました。

 

 

私(りんりん)のインナーチャイルド

大笑いのカオナシ劇場だったけど

それはほんとうに一例にしか過ぎなくて

私の世界。

 

NさんのはまたNさんの世界がある。を

感じてもらえたらと思います。

 

 

Nさんは、もうずっと長いこと、ファミリーコンステレーション

学んだり受けてきて、海外のカンファレンスにも参加している

そんな方。

 

文中に出てくるしんちゃん、はトレーナーの高落伸さん

通称しんちゃん。

体験談は、全文Nさんの言葉そのままにご紹介していきます。

 

 

みなさんに感じてほしいのは、

起きていること逐次がどうこうというよりは

人の内側の世界には、いろいろあるよ。というのを

感じてもらえたら嬉しいです。

 

家族の座を見てきて、そして今はトレーニーへ。

 

10年飽きることなくファミリーコンステレーションを見てきた

それでもなお、発見がある。

先週末、家族の座のトレーニング(通称:座トレ)に参加した時に体験したことを文字にしてみたいと思います。

 

前置きとして、書こうとしている人物の背景を少しだけ説明すると、この「家族の座/ファミリーコンステレーション」というワークに出会って、そろそろ10年が経過します。自分で自分の飽きっぽさを自覚していますが、この家族の座というワークだけは、この10年間飽きることを全く知らず、むしろ興味が増す一方。そんな人物が書いている文章だと思って、読んでいただけたらと思います。

 

 

知っていたって、自分のことになると別のもの

 

耳にすると胸のざわつきが避けられないワード

 

インナーチャイルド

 

いつ耳にしても胸のザワつきを避けられない、この不思議な言葉。かれこれ約20年かけて様々なセラピーや心理療法を試したり学んできた中で、何度も繰り返し遭遇するワード。「インナーチャイルドワーク」なるものを受けたことだって何度もある。それなのに、耳にした途端、反射的に自分の中で一瞬のザワつきが起きることを避けられないのです。

 

残念ながら、、、

 

そんなザワつきを感知している時こそ、そこに見ておくべき何かがある

 

ということを座のワークを通してこれでもかというほど学ばせてもらってきました。しかもここは『座トレ』という特別な学びの場。逃す手はないわけで、ザワつきを自覚しながら(=半分ビビりながら)、しんちゃんの問いかけに「やりたい~!」と手を挙げました。

 

 

シンプルに、今のこの「大人のわたし」と「インナーチャイルドのわたし(以下子どものわたし)」を置くことで、座が開かれました。わたしが結果的に目にしたのは、クタクタに疲れ果てていた様子のインナーチャイルドでした。代理人を受けてくれた座トレ仲間が、目をつぶって横たわっていて、その様は子供が安らかにスヤスヤと眠っているような表情からは程遠く、疲れ切って生気がない様にしか見えないことに、呆然としました。

 

少し離れたところか見ていたわたしは、その様子があまりにもショックで、その子に何かしないといけないと思っていて、思っているのに何をどうしたらいいかわからず、混乱していました。一方で、大人のわたしに目をやると、子供のわたしの様子とは逆に、元気にその場に立っているように見えました。ここで、このわたしの目に映っている事象の中に、ある種の謎な「つながり」をわたしは感じ始めます。

 

 

大人のわたしが元気そうに立っているのを、見ているわたしが自覚すればするほど、子どものわたしの生気が失われていく。

 

そんなことが脳裏をかすめだしたあたりから、実際に「大人のわたし」として自分の位置に立つよう、しんちゃんに促されました。いざそこに自分として立って見たものの、少し離れたところに引き続き横たわっている子どものわたしとは、驚くほど繋がりを感じられないのです。そのことがわたしの中で更なるショックとなり、混乱はますます増幅していきました。

 

 

つながりが感じられない?から変容への気づき

 

何もかも抱えようとして「委ねられない私」に気づく

 

そんなあたりだったでしょうか、しんちゃんが、わたしにその場に仰向けで横になるよう提案してくれました。右手首~左手首~右足首~左足首と順に持ち上げてくれるのですが、その時しんちゃんに「力を抜いてね。自分で持ち上げなくていいよ。」と毎回言われてしまうのです。それはつまり、わたしの手足を持ち上げようとするしんちゃんの手の力に、全くと言っていいほどわたしが「委ねる」ことができなかったことを意味していました。わたしは、反射的にそうしていたのです。今、その時のことを思い出しながら文字にしていても、目の後ろのあたりが熱くなってきます。

 

 

この『自分で何もかも抱えようとする感じ』が、もしかして子供のわたしをあんなに疲弊させてしまっていたのではないか?

 

そんな仮説が頭の片隅に生まれてきます。すると、しんちゃんがものすごく繊細なタッチで、横たわっているわたしの頭部に、そっと触れ始めました。すると、大人のわたしの内側から、子供のように泣きじゃくりたい感覚、そしてその感覚と共に、

 

「だって誰も助けてくれなかったじゃん!」

1人でがんばるしかなかったんだもん!」

「自分で踏ん張ってないとその先生きていけない気がしたんだもん!」

 

という言葉が次々に涙と嗚咽と共に出てくるのです。しんちゃんは『なおちゃんは、ふと見ると眉間に皺を寄せているなあ、と思っていたよ。』と静かに伝えてくれました。

 

 

 

シェアにどこかシンパシーを感じながら、自分を知っていく

 

家族の座は、起きていることやワークは

その場で座を開いている人のものです。

 

だけど、見ていたり、代理人をしている人にも

気づきがある。

 

今これを読んでいるあなたは、

Nさんのをみて、何か感じるものはありますか?

 

 

頑張っている

どちらかというと頑張り過ぎちゃう自分、とか

委ねられない自分、とか

平気なふりをしてしまう自分。とか

 

 

その気づきから、自分の中にあるドラマを

自分で紐解いていくことができるかもしれないです。

 

 

 

 

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