家族の座ファシリテーター Urja(ウルジャ)です。
不登校を例に
日常の困ったこと=解決したい=問題
をどう見ていくかのお話。
子どもが学校に行かないというとき
行かないことをなんとかしたくなる当事者と
なんらかの形で、学校に行くようになった
=解決したご家族には違いがあって
その違いを家族の座から考える
お話の2回目。
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前の記事で見たのは、この2つでした。
学校に行かない。
ということを真ん中に、2つのことが起きています。
1つは、
学校に行かない原因を探す。
学校に行くという前提のもとに、
行かないということは、
子どもに、何か原因があるのではないか?
子どもをそう育てた私に、問題があるのではないか?
あるいは、
学校の何かに問題があるのではないか?
問題は、「原因」と
言い換えることもできます。
もう1つは、
そこに不安がやってくる
学校に行かないこと自体の不安やおそれ、
学校で得られるものが
得られないのではないかという不安やおそれ
ときに、これを人に話したときに
「学校なんて今は行かなくてもまあ」
(行かないことの反応)
「成長の中で、いろいろあるだろうし。そのうち」
(時が解決してくれるだろう論)
「学校でなくても学べるし」
(勉強は他でもできる論)
あるいは学校教育というシステムへの議論など
いろいろな人がいろいろな視点から言います。
でも、それは気休めにしかならない。わけです。
それはなぜかというと、外側を見ているから。
もちろん、まわりと協力しながら
環境を作っていくのは必要なことだと思います。
ただ、
大事であるけれど、すべてではないのです。
自分が気になっていることは自分の中にあります。
ときに気持ちが和らいだとしても
いずれにしても自分の中から
べき論とおそれはやってきます。
このとき、このモヤモヤがカギ!
感じることは大事。
っていうのはよく聞くかもしれないけど
これがなかなか、山場です。
だって学校に行くのは当たり前で、
恥ずかしいし、不安だし、イライラするし。
という言葉で終わるなど、
いやだし、モヤモヤするし、イライラするし
というような、「一般的にそうでしょ」
という言葉で片付けられやすいからです。
その言葉と、じれるほどの自分の感覚を
一致させていくことが、感情を見たり
自分を知るということ。
家族の座は、そこに触れていくワークです。
なぜかって?という話はまた次回に
何が起きているの?がポイントです。
つづきはまた。
*家族の座
不登校でお悩みの方も、
「何が起きているの?」をみるのにおすすめです。