家族の座 ジャーナル

変えられない&くり返す 自分の持っている無意識の行動パタンを、癒やしながら手放していくコンステレーションのすべて

精子提供で産まれたワタシは誰なのか?(朝日 AERAの記事から)

家族の座 ファシリテーターりんりんです。

今日はふと目に止まった記事からのお話。

 

 

知人が、SNSでこんな記事をシェアしていました。

 

dot.asahi.com

 

 

不妊治療で、精子提供を受けて

子どもを産んだ夫婦(あるいは母子)に育った

その子どもの話です。

 

 

ーー

 

記事の中では、この問題を

父親がわからない形で精子提供する

不妊治療の問題を、

そこで生まれた子どもの違和感から書いています。

 

 

そして何が問題か、

大きく2つ紹介しています。

 

 

しかし、誰が父親かわからない――その状況に突然、加藤の中に怒りが込み上げてきた。「これって何だろう。29年間もだまされてきたのか」。これがAID出生者がよく経験する「喪失体験」である

 

親がアイデンティティ形成の根幹にかかわる、最も重要なことで子供に真実を伝えていないため、家庭内に説明のつかない違和感や緊張感が絶えず漂っているという。

 

さすが!!!!

記事なので

言葉の使い方がセンセーショナルです。

強い言葉にけむに巻かれて

問題だなーって、思って終わりそうだけど

 

 

ものすごく平たくいうとこういうことです。

 

 

 人は

 子どもと遺伝子的なつながりがないとしても

 実の子どもとして育てていたら、

 話さなければ子どもにわからないと思う

(ものである)

 

 だけど、言わなかったとしても

 子どもはどこかで

 血が繋がっていないことを感じていて

 違和感を持つことが多い。

 

そして

 事実(実は血の繋がっていない親子だ)を

 隠していることで

 子どもがおかしいと感じる。

 何かが隠されているというのは気づいている

 

が、

ものすごくフラットに
親子間に「ある」ことです。

 

 

 

センセーショナルな書き口にとらわれないで見ると?

 

 

騙されていたのか。というのはその人の解釈・感情だったりするので

どう思うかは人による。

でも、こうして文字で騙されったって言われると、

そうだよね。って思っちゃうから

記事がセンセーショナルだな。って思うのです。

(でも、問題はそこじゃない)

 

 

でも、これまた記事で

それがアイデンティなのかというと

編集部や紹介している本での

アイデンティティの定義がわかってないから

これまたそうかもしれないけれど

センセーショナルだな。って思うのです。

(やっぱり問題はそこじゃない)

 

 

問題はここ

 

隠されていることで、

血の繋がった親を知らないことで、

違和感を感じる「子どもがいる」。

 

育ててもらった恩もある(感謝もある)

はずなんだけど、

隠されていることで、感謝を感じられないほど

あるいは感謝していたとしてもなお、

何かに気持ちを持って行かれている人

囚われている人がいる。

 

ということなんだと思います。

 

 

 

大事だから2回いう。

 

隠されていることで、

育ててもらった感謝を感じられない

 

あるいは感謝していたとしてもなお、

何かに気持ちを持って行かれる人(本人)がいる。

 

 

 

理屈くさいと思うかもしれないけど

大事なのはそこ。

 

 

 

制度のせいじゃなくて、その人の人生の問題

 

 

家族の座としては、

その「気持ちを持って行かれている」

=囚われていること

 

たとえば

本当の自分ってなんだろう?(自分がわからない)とか

信頼ってなんだろう(信頼できない)とか

つながりが感じられない

(例えば結婚したり、人と深く繋がるのが怖いとか)

という形で出てきてしまうことが問題。

 

 

血の繋がっていない親子や

夫婦の間にできたこども。という形でない育ちは

どこかその人の人としての尊厳に触れる部分が

揺らぐほどのことが出てくるのだ。ということ

なんてこと思いました。

(家族の座でも、こういうのはよくあります)

 

 

で。

 

こんなことになる原因として

不妊治療の方法の一つは問題かもしれないけど

その親子の問題は、

もっと個人の人生によるものです。

 

 

同じようなことは起きてほしくないから、

制度を変える。は、

社会的な活動でできることだけど

 

 

それが今、その人が感じている

何らかの生きにくさを変えることにはならなくて

事実をどう受け止めていくかは

そこはまた別なお話だなと思いました。

(ええ、家族の座もその一つのお役に立つと思うのですが)

 

 

ケアと社会問題は分けて考えられる

ということです

 

 

同じことは、いっぱい起きうる

 

血のつながらない人が親になる

いわば育ての親になるということは

 

この記事のような、精子提供でもあると思うし

卵子提供でもあると思う。

養子縁組でもあると思う。

 

 

 

でも、根っこにある問題は

今日のブログで書いた部分と変わりません

 

 

そして、そこで一つ疑問が浮かびます。

 

 

いろんな方法で、子どもが欲しいというとき

 

何で子どもが欲しいんだっけ?

 

ということが一つの問題。

そんなこと考えたら子どもなんて産めないし、

養子をもらって育てられないと思うけど

 

 

たとえば不妊治療をしていた友人は

考えれば考えるほど、私のエゴだ。と言っていました。

 

 

そこには、産んだ責任があるんだよね。

なんて。

 

 

ーーーーー

つづく

次回以降、もう少し、

隠すとか、本当の親っていう価値観を

座の視点から考えてみたいと思います。

 

 

 

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